まぐだら屋のマリアー原田まは著
クリスマスの時期にあわせて手に取ったわけではなかったが、12月になるとキリスト教の教会に飾られる聖母マリアとキリストの誕生の図を思い出す。とここまで書いて「まぐだらのマリア」と「聖母マリア」は別人であることを思い出した。「まぐだらのマリア」はキリストに出会って改悛したマリアなのであった。これで題名と小説の内容に関連が生まれた。
私は東北の過疎の海辺が舞台であろうと読み進めていったのだが、会話文が私の住む山陰の言葉に近い。山陰の日本海側の冬は寂しく海は荒れ厳しい寒さを伴なう。この時期、太陽がたまらなく恋しくて仕方なくなることが頻繁にある。春が待ち遠しいのは太陽の恩恵のない土地であれば共通なのだ。
身も心もボロボロになっている時に温かい料理を提供してくれる店が現れれば、それだけで救われた気持ちになるものだ。紫紋は老舗料亭で修行していた青年であるから料理への想いは何より強い。心身ともに冷えていく描写の中で現れてくる料理の数々でに紫紋だけでなく私の心も満たされていった。
物語後半のまりあの物語は壮絶で読み飛ばしたくなる。温かい心を尽くした料理の描写がもっと続いてくれれば、などと思ってもしまう。紫紋の前から男と共に姿を消したまりあは尽果に舞い戻り定食屋を再開していく。まりあと共に歩みたいと願った紫紋であったが紫紋の母が待つ東北へ戻るようにまりあに説得され、母が暮らす東北へ帰っていく。
男たちはたいてい母の元に戻っていく。子どもにとっての母の存在の大きさを十分理解しているが、息子と母親の関係は永遠に美しすぎるような気さえする。再生の物語なのだから母の元に帰っていく結末は妥当なんだろうと納得するのだが。