親を送る 井上理津子著
母親が急死し四ヶ月後に父が逝くというあっという間の出来事が描かれている。老親を介護している私にとって身につまされるものであった。
特に母親が病院で亡くなった場面以降の家族の慌てぶりは、30年近く前の我が家の姿に重なった。もうおぼろげな記憶と化してしまったが、祖父が亡くなり葬儀を執り行うのはさぁどうすればよいのか。多分祖父は施設で亡くなったはずで、先が短いこともわかっていたろうに両親は手当をしていなかったのだろう。電話帳で葬儀社を探し自宅で祖父を見送ることにしたが、驚くほどに手筈がよく、まるでベルトコンベヤーに乗ってしまったかのように、考える間も無く料金との兼ね合いで事が進み祖父の葬儀は執り行われた。
著者の母は急死であり何が何だか分からないまま、病院から告げられたのは翌日には遺体を引き取らなければいけない事であった。身近な死を弔った経験がなければ誰もが慌てふためくだろう。そのドタバタ騒動から4ヶ月後に迎えた父の葬儀については淡白な筆運びであった。
著者の母のチューブ姿が痛ましい。延命治療は不要と本人は語っていたはずなのに親族の一言で全てが変わる。誰もが見たくないのだが、どんな姿でも心臓が動いている状態を望むとその姿形は大きく変貌することを初めて知った。死化粧された棺の中の母の顔があまりにも無惨で死に顔は見てもらいたくないなんて。
自分一人で決められない死までの処置方法。心臓マッサージをすることで肋骨が折れることがあると聞いているが老いて亡くなれば周囲にもバキバキと音が聞こえるだろう。心臓マッサージはある種のパフォーマンスでもあるように思えてしまう。
親の死はどんな形でやってくるのか。年の順番ならよいのだが、運悪く私が先に逝ってしまったら申し訳ない。しかし死の悲しみやドタバタ劇を展開することもないのだろうから順番が変わってしまっても良いのだけれど。